マリー・ローランサン美術館の復活
~世界で唯一のローランサン専門美術館が日本にある
エコール・ド・パリの紅一点、マリー・ローランサンをご存じですか。
1883年生まれのローランサンは、私生児として生まれ母子家庭に育ちました。後に代議士になる実父の援助もあり、裕福に育ったローランサンは、1904年、21歳の頃から画塾アカデミー・アンベールで油絵を習いはじめます。この学校で出会った1歳上のジョルジュ・ブラックを通じて、ローランサンは、ピカソらと交流を持つようになります。
当時、ピカソのアトリエはモンマルトルの安アパート洗濯船(バトー・ラヴォワール)にあり、若き前衛画家のたまり場になっていました。その中でも特に親しくなったのが、詩人のギヨーム・アポリネールです。ともに私生児であったアポリネールとローランサンは1907年から1912年まで恋愛関係にありました。
後に、アポリネールの嫉妬に疲れたローランサンから別れを告げますが、二人の間の友情は終生続きました。1913年にアポリネールが刊行した『キュビスムの画家たち』の中では、ローランサンはピカソやブラックに並ぶ画家として扱われています。この頃にはローランサンはすでに新進画家として頭角を表していました。二人はその後、別々の相手と結婚しますが、アポリネールの方は1918年にスペイン風邪(インフルエンザ)に罹って、32歳で亡くなりました。
一方、ドイツ人画家ヴェッチェンと結婚してドイツ国籍となったローランサンは、第一次大戦でドイツとフランスが開戦したのに伴って、フランスに留まれなくなってスペインに亡命します。ローランサンの結婚生活は決して幸福なものではなく、1921年、38歳でようやく離婚が成立した後は再びパリに戻りました。
1920年代のパリは、狂乱の時代(レ・ザネ・フォル)と呼ばれた文化の爛熟期でした。エコール・ド・パリの画家が活躍したのもこの時代です。すでに名前の売れていたローランサンは、人気画家として独身生活を謳歌します。ローランサンを支援したのは、ピカソなどと専属契約を結んでいたパリの画商ポール・ローザンベールでした。
当時、パリの上流階級の間では、ローランサンに肖像画を描いてもらうことが流行っていました。「シャネル」の創業者であるファッションデザイナーのココ・シャネルもその一人でしたが、出来上がった絵が気に入らなくてローランサンに返却したという逸話が残っています。同い年だったシャネルとローランサンですが、社交界の花形同士としてライバル意識があったのかもしれません。
実際、ローランサンの生誕100周年にあたる1983年には、世界初のローランサン専門美術館が、長野県茅野市蓼科高原でオープンしました。理事長は、大手タクシー会社グリーンキャブ創業者の高野将弘社長で、自らが経営するリゾートホテルの目玉として、500点余りの個人コレクションを公開することにしたのです。しかし、この画期的な専門美術館は、リゾートホテルの売却に伴い、2011年9月に、惜しまれながらの閉館となりました。展示されていた絵画は、再び高野家の収蔵品としてしまわれたのです。余談ながら、この高野家の子供の一人は、元SMAPの稲垣吾郎さんの親友として話題になりました。
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